2012年6月9日土曜日

AKB総選挙と「票数は愛である」思想 Part2


最近在宅オタを卒業した私は、実際に劇場に行ったりライブに行くと本当に

「愛してる」
「超絶可愛い」

などの、日常では絶対に使わない言葉を叫んでいるファンの方に驚いてしまいます。

ちなみにオタク特有だと思われている「萌え~」のような言葉を発する人はいません。アレは人間を褒める言葉ではなく、基本的にはアニメやマンガに対しての褒め言葉のようですね。


アレを見ると思い出すのは歌舞伎です。
高校生の文化鑑賞で歌舞伎をわざわざ横浜から東京まで行ったのを思い出します。基本的にAKBも歌舞伎も、劇場を持っているあたりが似ていますね。

そこでも、「中村屋~」など叫んでを、座席の一番後ろで観客をリードする人がいました。


前エントリーの振り返り


さて前回のエントリーで、

アイドルとは、いくらでも愛していい偶像である

と定義しました。

発想は、大島優子さんの「票数は愛である」発言でした。いくらでも愛していいという需要の背景に、「愛の告白の責任」や「自由恋愛市場」などの要因を挙げてみました。

それでは、そのうえで「票数は愛である」という思想はどのような影響を、48メンバーやファンに影響を与えているのかを考察してみたいと思います。


「愛=金」という図式

他のエントリーで、AKB総選挙には正義があるのかという、ハーバード白熱教室のサンデル教授並みのアツさでペンを握られている方も多くいました。その中では、票が金で買えること、その票を愛とAKBメンバーが呼ぶことに対する嫌悪感を示されていました。

これは、まさしくサンデル教授の言うところの功利主義です。全ての事柄(愛や好意を含めた)を一つの基準によって測ることが可能なのかという問いです。

白熱教室では、サンデル教授は以下のように言っています。


つまり、「人が重んじていることや、大切にしているものは、たとえ命であれ、カンザスであり、ミミズであれ、一律の価値基準にあてはめることができない」ということだ。  もし後者(一律の価値基準にあてはめることができない)が正しいとすれば、功利主義の道徳原理は崩れてしまうことになる。(出典:ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業[上]P.74)
逆に言えば、一律の価値基準にあてはめることを正当化できる倫理や論理があるのならば、愛を金を測ることが可能であるということです。そして、それは日常生活の範囲である必要ではなく、アイドルとファンという限定された空間で有効性を持てば良いのでしょう。

私の定義では、「アイドルとは、いくらでも愛していい偶像」であるため、与えられるものは例えお金であっても、愛と呼ぶことには彼女たちの存在意義に合致します。これこそがアイドルの功利主義を肯定する唯一の倫理観なのではないのでしょうか。


アイドルとファンの愛の形

一般的に他人に愛を告げると以下のようになります。


このように一方に愛を告白した場合、もう一方それを受け入れるか拒否するかのどちらかを選ぶ必要があります。決断を保留することは、自由恋愛市場不全を引き起こすため許されません。

左側のように愛の告白が受け入れられた場合、形式上お互いに好意を持っていることになります。好意を持つとお互いに相手の行動を制限し合うことになりあます。これが前のエントリーで示したところの「愛の告白の責任」です。

一方右側のように断られてしまった場合、好意を持ち続けても良いですが、基本的にはそれを日常生活では表に出さないように努めると思います。結果的に自分の好意を、表現することさえ暗に禁じられてしまいます。

結果的には、受け入れられても断られても、愛の告白が引き起こす閉塞感や束縛感をどうしても拭うことができないのです。これが「自由恋愛市場」において引き起こされる出来事でした。


アイドルの場合では、以下のようになります。


非常にシンプルです。

アイドルは一般的にはファンからの愛の告白を拒否することはできません。一方、ファンは直接的にかつ恣意的にアイドルから好意を示されることはありません。これこそAKBのいうところの「恋愛禁止条例」にあたります。原理的に言えば、アイドルには彼氏はおらず、恋愛もしてはいけないからこそ、全ての人から愛を受け入れることが可能になっているのです。

このようにファンは何も与えられない代わりに、「自由恋愛市場」と「愛の告白の責任」から解放され、自分の好意を無制限に表現することが可能になり、アイドルは、「どれだけ愛してもいい偶像」として存在します。

48グループというアイドル

上記のような形がいわゆるアイドルの雛形でした。しかしながら、その雛形の枠からはみ出した存在こそが48グループというアイドルです。枠からはみ出した大きな要因が「会いにいけるアイドル」というコンセプトです。

「会いにいけるアイドル」とは具体的には、「劇場に行けば会える」、「握手会で握手しながら話せる」、「写メ会でツーショット写真が撮れる」、そして案外重要なのはインターネット上の「ブログで一日の行動を知れる」や「SNSでコミュニケーションがとれる」といったものです。他にも、メールを送ってくれるサービスもあるそうです。

このようにAKBは自分の日常を切り売りして、仕事ではなくアイドルという人種として生活しています。これはプロテスタンティズムが「世界の魔術からの解放」を行ったとに、多少ながら似ていると思います。

しかし、「会いにいけるアイドル」というコンセプトは、アイドルとファンの間に別の作用を及ぼしました。それは、アイドルによる特定のファンに対する認知が高まったことです。足しげく何度もメンバーに会いに行くと、自然と名前と顔が一致してくるようになったのです。

そして、ファンはアイドルから認知されるようになって、忘れたはずのある感情を思いだしたのです。


それこそ

「愛の告白の責任」

です。

自分が「ファンです!応援しています!」と言っても、相手が本当に喜んでくれているのか分からののです。形式的には、「嬉しいです!ありがとうございます!」と答えてくれても、それが建前でないという保証はどこにもありません。かといって付き合ってくださいと申し出ることは、アイドルとファンという関係の終焉を表します。そのようなジレンマに気が付いたのはアイドルとファンの間に、個々の特別な関係(顔と名前が一致するような環境)が生まれたのが原因に他なりません。

自分がファンであり、アイドルを好きであることを表現することは、ファンがアイドルに対して持つ権利でしたが、権利を行使すればするほど名前を覚えられてしまい、承認欲求のような高次の欲求まで満たされることで、持つ必要のなかった「愛の告白の義務感」を感じるようになったのです。


総選挙という政(まつりごと)

総選挙を実際に見ているとあれはまさに戴冠式のような、一種の政のような緊張感があります。大島優子さんが中央に置いてある椅子に座る姿は、まさに「女王」の名にふさわしい貫録がありました。司会の徳光さんが何度も噛んだのが頷ける緊張感でした。


順位が呼ばれ壇上に立つメンバーは一様にファンへの感謝を述べます。つまり逆に言えば壇上に上がれないメンバーは、公の場で自分のファンに対して感謝も述べられないのです。個人的な場(たとえば握手会やブログ等)で感謝を述べることもできますが、第三者の前で感謝を述べることのほうが絶対的に価値があります。

例えば、ノーベル賞授賞式で愛する妻に長年連れ添ってくれたことへの感謝を述べる学者の姿は非常に印象的ですし、感謝を述べられた側の喜びは測り知ることが出来ないでしょう。

そのため、メンバー自身も壇上に上がって感謝を述べられることに価値を感じています。


一方、ファンにしても「愛の告白の責任」に後ろ髪を引かれる部分があり、どうしてもそれを解消したいと思っています。なぜならば責任感のない無限の愛情表現こそ、アイドル本質であるからです。

つまり、責任感を解消する方法としての総選挙です。

グループ内での序列が如実に現れるこの総選挙では、もちろんファンへの感謝を表したい願いもありますが、それ以上に自分のステータスや自尊心にかかわります。メンバーが内心、順位が欲しい、できるだけ高い順位が欲しい、と思っていることは明らかです。

そのため総選挙の期間中は、AKBメンバーからのファンへの要求が明確で、一義的(票数)です。そしてそれに応える形で、ファンは「愛の告白の義務」から解き放たれます。義務から解放されるためには権利、つまりどれだけでも愛を表現して良い権利を行使すればよいため、時にはCDを数百枚購入して投票したりするのです。

義務を権利によって遂行することが可能な場こそ、総選挙なのです。


「票数は愛である」

結果的に票は金で買えますが、金で買った票はメンバーにとっては愛なのです。この事実は過去のアイドルの歴史から見ても明らかであり、覆すのは困難です。

しかしながら、アイドルとして新しい局面に入った48グループでは、名前も顔もわかるようなファンに対して何かしらの愛を届けたいというメンバーが多数現れています。このメンバー内に生まれている新しい気持ちは、総選挙を繰り返すことで解消されるのか、はたまた違う局面に入るのか。

それはまた次のエントリーで。。。

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